古本への旅 ①『中島のてっちゃ』あんばいこう

これまでこのブログで、「古本街道をゆく」という連載を四回ほど書いた(今後も続く)。そして今また新しい連載を始めたい。「古本街道をゆく」は、私が『日本古書通信』の取材で赴いた、様々な古書店を通してみた各地のフィールドワークであった。そして今回始める連載「古本への旅」は、ズバリ「一冊の古本」がテーマである。

私は古本屋である前に、一介の本好きである。だから「イイ本との出会い」に勝る人生の喜びはない。私が初めて「古本と出会った」のは二十代前半のことだった。芸術家が、自ら作るひとつひとつの作品によって前進し、芸術を深めて行くように、私も一冊一冊の古本との出会いを通してここまで来た。これからもそうだろう。古本屋になると、「通過する本」は増えても、「本との出会い」は意外と少ない。そしてあらゆる出会いと同じく、「本との出会い」もまた人間的なものだ。出会った当時の心境、読んだ時の感動や紹介してくれた人との関わり、その本を作った人の話など、私がこれまで出会ったイイ本には様々なエピソードが詰まっている。この「古本への旅」では、そんな「一冊の古本」に纏わる物語を紹介していきたい。

IMG_9272
『中島てっちゃ』チープな横尾忠則風な装丁もインパクト大。

『中島のてっちゃ』あんばいこう(無明舎、1976)

日本古書通信(以下古通)』の取材で地方に行くと、当然知っているものとして、私の知らない作家の名前を出される事がままある。その地方では有名でも、全国的な知名度はさほどでもない作家などだ。例えば取材で道東(北海道の東部)に行った時、更科源蔵の名前を何度か聞いた。あるいは長崎で取材した時、幾つかの古書店が野呂邦暢に関するエピソードを語ったが、私はその名を知らなかった(恥ずかしい)。そんな感じで岩手に行ったとき、さも知ってて当然という風に「あんばいこう」の名を出す古書店が多かった。
私があんばいこう氏の名を初めて聞いたのは、三年ほど前、岩手の浅沼古書店さんを取材した時だ。
浅沼古書店の店主の浅沼剛氏は、この道三十年以上のベテランで、東京の大学を中退後、地元岩手で地方新聞の記者をやったり、月刊誌『地方公論』の編集長をやったりした後、古書店を開業した異色の経歴の持ち主だ。そして『地方公論』の編集長だった浅沼氏に、古本屋になることを勧めたのが、あんばいこう氏である。
取材中、私があんばいこうを知らない、と言うと、ちょっと呆れた表情で浅沼さんが店の棚から出してくれたのが、今回紹介する『中島のてっちゃ』という本である。

IMG_9283-2
あとがきの著者(あんばいこう)近影

あんばいこう・昭和二十四年秋田県湯沢市に生まれる。秋田大学を中途で退学。様々な模索を続けて、四年前、古本屋、学習塾、企画室、装飾の下請けを業とする「無明舎」を主宰し、現在に至る。陽の当らない底辺に視点をすえ、満を持して年来の願望であった出版活動を始動させた。「地方」の枠にとらわれない伸びやかな出版活動をめざし、続けて刊行予定の本の企画、編集に全勢力を注いで行動している。(あとがきより)

その後あんばいこう氏及び無明舎は、地方出版の雄として、現在まで千二百冊以上の秋田や東北に根ざした本を刊行している。そのあんばい氏の処女作であり、無明舎の初の出版物がこの『中島のてっちゃ』だ。

これは、「中島のてっちゃ」と呼ばれた男の半生のドキュメントである。
常人より知能が低く、社会の生産に役立たないことによって底辺に生き、「河原者」という意味でしか「芸人」でなかったこの男は、半生の大部分を野外に寝泊まりし、街頭や歓楽街を尺八で門付けしながら、人々に蔑まれ、追い回され、しかも、愛された。
寵愛と暴力的仕打ちを交互に受けながら、ひたすら生活の糧を得るために秋田の街と陽の当らぬ昭和史の裏道を歩み続けた。
その半生は、富や地位とは無縁であったが、「市長の名を知らずとも、中島のてっちゃの名を知らぬものは秋田市民にあらず」の一言を残し、人々の郷愁の中に生き続けている。(前書きより)

IMG_4600
盛岡の浅沼古書店

浅沼古書店さんで早速この本を購入し、私は盛岡の宿に帰って一気に読んだ。久しぶりに「イイ古本」に出会ったと感動した。内容は高橋竹山の名著『津軽三味線ひとり旅』を彷彿とさせるもの。盲目であった竹山と同じく、知的障害のあった中島のてっちゃも尺八で門付けをして口を糊した。著者も語るように、これは陽の当らない昭和の裏面史、あるいは古くは室町から続く「門付け」という芸能の裏道をも記した一流のドキュメンタリーである。また、後に活躍する人物の処女作に特有な、一種デモーニッシュな迫力をこの本は備えている。例えばコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』や三島由紀夫の『仮面の告白』のような、単なる文字の羅列を超えた力(迫力)が読むものを捉えて離さない。批評家でなくとも、この本の著者・あんばいこうが、秋田という雪国の地方都市の底辺で、笑いや蔑み、ときに暴力に身を晒しながらしぶとく生きるてっちゃの姿に、自分自身の内面的な何事かを重ね合わせていることは分かる。『中島のてっちゃ』は、あんばいこうの処女作でなければならなかった。そして中島のてっちゃは、あんばいこうの反転したヒーロー像として描かれている気がした。この本が、地方出版としては奇跡的な、一万部も売れたというのも納得できる。

あんばいこうの『中島のてっちゃ』。いろいろな出会いによって私の手元に来た一冊の古本。私のお気にいりの一冊として、売らずに私の書架に収まっている。

◼︎ 「中島のてっちゃのあるいた路」HARMLESS UNTRUTHS
◼︎ 「葬儀で罵倒された経験ってありますか?」んだんだ通信・無明舎