枕を撼かす濤聲に夢を破られ、起って戸を開きぬ。時は明治二十九年十一月四日の早暁、場所は銚子の水明楼にして、楼下は直ちに太平洋なり。
徳富蘆花は、明治二十九年十一月、写生旅行のため来銚した。今はなき水明楼から見た銚子の日の出にいたく感動し、後にそのことを『自然と人生』の中で書いた。自然描写を得意とした蘆花の、名文中のひとつである。続けて彼は云う。
午前四時過ぎにてもやあらむ、海上猶ほの闇らく、波の音のみ高し。東の空を望めば、水平線に沿ふて燻りたる樺色の横たふあり、上りては濃き孛藍色の空となり、こゝに一痕の弦月ありて、黄金の弓を挂く。光さやかにして宛ながら東瀛を鎮するに似たり。左手に黒くさし出でたるは犬吠岬なり。岬端の燈臺には、廻轉燈ありて、陸より海にかけ連りに白光の環を畫きぬ。(『自然と人生』徳富蘆花)
蘆花が見た「岬端の燈臺」とは、犬吠埼燈台のこと。英国人ブラントンにより設計され、和製レンガを初めて使用した灯台である。蘆花が見た四年前、明治七年に完成している。先日私が見た銚子の日の出も、蘆花の時と同じく、美しかった。
「犬が吠える」と書いて犬吠(いぬぼう)と読む。ここで義経の愛犬若丸が、船出した主を慕って七日七晩泣き続けたとされる。銚子に数多く残る、義経伝説のひとつだ。伝説と史実は違う。だがこの岬に、義経伝説を重ね合わせた銚子人のロマンティシズムは悪くない。
銚子ははるか昔から醤油と漁業の町として栄えた。醤油も漁業も、この地に根付かせたのは紀州(和歌山)人であるとされる。「板子一枚下は地獄」の漁師と同じく、息つまる室(むろ)で働く醤油屋も、近代以前は荒くれ者の仕事であった。渡りの醤油屋者は西行と呼ばれ、広敷という泊り小屋で仁義を切って、働き仲間に加わったという(『銚子と文学』岡見晨明編より)。銚子弁は、他国者が聞くと怒られているように感じる、威勢のいいものだ。銚子の荒波と風土から生まれた言葉が、おとなしい訳がない。
昭和二十年七月十九日、銚子にアメリカ軍による大規模な空襲があった。銚子空襲である。消失個数数千戸。死傷者は一千人超。醤油工場や銚子駅など市街地の大部分が灰燼に帰した。七十歳以上の銚子の人から、必ず一度は聞かされる漁師町の大事件だ。私の妻のお父つぁんは、十五万発のナパーム弾が降る中を、母親に背負われて近くの防空壕に命からがら避難した。先年死んだ婆さんが、その日の記憶で後々までうなされていた事を、妻ははっきり覚えている。
軍事施設も造船工場もない、醤油と漁業の町銚子に、なぜ空襲があったか。一説によると、銚子はB29が本土に入る通り口のひとつであり、東京空襲の帰りがけに余った爆弾を落として行ったのだとか。
ニュージャージ州出身のノーマン・メイラーは、「太平洋戦争の文学を書く」野心を持って、二十一歳の時自ら従軍した。レイテ島での激戦を経て、一九四五年十月、メイラーは中隊と共に初めて日本に降り立った。そこは空襲によって無残に焼け野原となった、自然の美しい「小さな漁師町」だった。その場所の名前は「チョーシ」といった。
後に『裸者と死者』の中でメイラーは、日本兵士イシマルの手記として、当時彼が見た銚子の風景を描いている。
二里ばかりの銚子の半島は、日本全体の縮図だった。太平洋にむかって、数百フィートの高さに切り立った、大絶壁があった。まるでエメラルドみたいに完全で、きちんとつくられた豆絵の林、悲しげな低い小さい丘、魚の臓腑や人糞が鼻をつく。
銚子の狭苦しい、息もつまりそうな町、ものすごい人だかりの漁港の波止場。何ひとつむだにするものはない。土地という土地は、一千年の長きにわたって、まるで爪の手入れみたいによく手入れされていた。
(『裸者と死者』ノーマン・メイラー)
私が愛する銚子について、思いつくままに書いてみた。だが私には、銚子の円福寺に石碑が残る以下の句が一番しっくりくる。
ほととぎす銚子は国のとっぱづれ
古帳庵
写真/文:古賀大郎
撮影場所:犬吠埼観光ホテル