今日2chのまとめサイトを見ていたら、ユダヤの格言を紹介しているスレッドでうれしい言葉を見つけたのであげておく。
本のない家は,魂を欠いた体のようなものだ。もし、本と服を汚したら、 まず本から拭きなさい。
最後まで売ってはいけないのは本である。旅の途中で故郷の町の人々が知らないような本に出会ったら、必ずその本を買い求め、故郷に持ち帰りなさい。
さすがユダヤ人、古本が分かってますねー。ノーベル賞最多受賞民族だけのことはある。
そんなわけで、今日は自分の私的な本棚を紹介しながら、本についてあれこれ書いてみる。
これは売り物ではないわたしの個人的な蔵書だ。写真に撮っておいて何だが、別に大した本はない。その気になればどれも数百円、もしかしたら一円で買えるような本ばかりだ。でもこれらは二十代の頃、甘ったれていたわたしに電気ショックのような喝を入れてくれた、プライスレスな本である。その頃わたしは、人並みに映画や音楽などいろんなものに手を出したが、本が、もっと言えば本という媒体に封じ込められた天才たちのことばが、一番強く響いた。小林秀雄、志賀直哉、ジョルジュ・バタイユ、リルケ、ヴィトゲンシュタインなどなど。挙げればキリないが、彼らの本を初めて読んだ時の、脳のシナプスが頭蓋骨のなかで連鎖爆発を起こしたような衝撃を、今でもはっきり覚えている。その後は、例えは悪いが、風俗デビューした若者が女にのめり込むように本に耽溺した。六畳一間の穴倉は本だらけになり、親からの仕送りで本を買い、当時働いていた取次書店の給料は本のツケに消えた。それだけ本を読んで、立派な学者か作家にでもなっていれば、親も喜んだろうが、今はこうして古本屋。つくづく大馬鹿なわたし(笑
わたしは古本屋だが、本至上主義者では全然ない。常々わたしは「本は危険なものだ」と思っているし、今のところ見当たらないが、本以上のツールが生まれれば、本がなくなっても構わない。ではなぜ今だにわたしが本を読むかと言えば、本という媒体を通してしか成り立たない、他者との深い交流があるからだ。スマホに文字を打つ人が、スマホを通して誰かと会話しているように、本を読むわたしも、本を通じて作者と対話する。ただスマホと違うのは、対話する相手が死んでいる人かも、二千年前の人かもしれないことだ。先日わたしは獄中の人と対話した。友人の古書赤いドリルさんから勧められた、坂口弘の『あさま山荘1972』を読んだからだ。わたしは左翼でも右翼でも馬のションベンでもないが、実に意義深い対話だった。おそらく刑務所で本人と面会しても到底得られないほどに深い対話だった。そのようにしてわたしは、人種も国籍も、いま生きているか死んでいるかも関係なく、様々なひとと対話する。本というただのハコを通して。なぜだろう。本によって得られる対話に比べると、わたしはインターネットでの交流も、直接の会話ですらも、嘘くさく、時に偽善的に感じてしまう。
日頃は饒舌でも、ネットでは寡黙になるひとがいる。いつもは物静かでも、マイクがあると朗々と歌うひとがいる。それと同じように、日頃はどんなひとでも、本を書くとなると、何かが目覚めてしまうひとがいる。そんなひとが、「本に書く」以外になし得ない言葉の宇宙を奏で、それにわたしが共鳴してあらゆる想像力、あらゆる感情を動員して作者とのコミュニケーションを果たす時、本を読みながらわたしの脳細胞は連鎖爆発を起こす。わたしが本を愛する理由はこれに尽きる。
長くなったのでこの辺で。