暮しの手帖について

一冊の古い暮しの手帖を目にし手にとった瞬間から、わたしの運命は大きく方向を変え、長年勤めた会社を退職し、その後まもなく古本屋となり、いまは自分が暮しの手帖をお客さまに売っています。

まず最初に読むのが、「ある日本人の暮し」という連載でした。
日本のどこかに住んでいる見知らぬ人々の暮し。

二人の子どもを育てながら「みどりのおばさん」を仕事としている働く主婦の一日。都会の真ん中で深夜まで小さな青果店を営むある夫婦。店にはトイレもなく、確か新橋の駅までわざわざ行かなければならなかったと言っていた若い奥さん。真夜中になって二人でようやく卵かけご飯を夕飯にしていたのでした。戦後まもなく両親を亡くし、雨漏りのするトタン屋根の家に肩を寄せ合って暮していた兄妹が、ある日抽選で新築の公団が当たり楽しそうに暮していた毎日。誌上で編集部が花嫁花婿を募集していたけれど、あの二人はその後それぞれ結婚したのだろうか。

今日は、イベントで販売する暮しの手帖の値付けをしていました。そこに厚焼き卵のサンドイッチの作り方が載っていて、それが実においしそうだったので、明日の朝食に早速作ろうと考えています。パンにマヨネーズとマスタードを薄く塗り、味付けは塩のみの卵をバターで焼き上げた厚焼き卵を挟みます。
温かいミルクコーヒーか、ミルクティーをお供に楽しみたいと思います。

故郷へ帰る

来月のどこかで数日間、家族で実家へ帰ろうと計画しています。
何をするというわけではありませんが、今年後半戦の英気を養うべく、少しの間お世話になりにいってきます。

私の故郷・銚子にはいくつかの文学碑があり、観光名所のひとつとなっています。子どもの頃からの見慣れた光景なので、あらたまって見学に行ったりすることはありません。
https://www.city.choshi.chiba.jp/kanko/guide/kawaguchi/kawaguchi.html

銚子にある文学碑には、茨城の牛久に暮らしていた日本画家・小川芋銭の碑があります。銚子は県境に位置するため、橋を渡った利根川の向こうが茨城になります。牛久の小川芋銭の家の近くには、農民文学者・犬田卯の家があり、両家は仲が良くちょくちょく行き来をしていたようです。

戦前の牛久では、丑寅(東方から)の風が吹いたとき、〝ドーン・ドーン〝と太鼓のような重量感のある響きがよく聴こえたそうで、犬田いわく、その音は「二十里東方の銚子漁港海岸の岩に太平洋の荒波があたって砕ける音だ」とのこと。
それを読んだとき、まさか牛久まで銚子の波の音が聴こえるものなのかと疑問に思いましたが、戦前の話しであるため、当時は大きな建築物もそう無く、本当のことであったのかもしれません。

銚子の荒波とはどういうものか。
あまりにも知られたことで、わざわざここで書くことでもないとは思いましたが、東映のオープニングに映し出される海の映像は、銚子の海鹿島(あしかじま、と読みます)で撮影されたものだと言われています。ちなみに、小川芋銭の別荘は海鹿島にあったということです(銚子市海鹿島町)。

トップ画像は、荒れていないときの静かな銚子の海を店主が撮影したものです。

古本街道をゆく一「長崎・大正堂書店」

今日から「古本街道をゆく」という読み物を、このブログで時々書いていこうと思う。
私は『日本古書通信』(八木書店発行、昭和九年創刊)という雑誌で、「21世紀古書店の肖像」という連載をやっている。これは私が日本各地の古書店を訪ね、写真と短い文章で毎月一店ずつ紹介するものだ。早いもので連載を始めて四年目となる。紹介させて頂いた古書店も五十店を超えた。ただ連載では、文字数が五百字程度と限りがあるので、毎回いろんな興味深い話を伺いながら、書ききれない事柄も多い。そこで「古本街道をゆく」では、字数の関係で『古書通信』で書けなかったことを、自由に書いていこうと思う。『古書通信』の連載と合わせて読んでいただければ幸いだ。

私は見知らぬ旅先でその土地のことを知りたければ、地元の、できれば老舗の古書店に行き、その土地に関する本を数冊買って、店主さんとお話をするのが一番だと思っている。古書店主は学者ではないが、その場所で長年やっている古書店は、地元の教育機関や作家などと取引があり、自身も本好きということもあって、ちょっとした郷土史家と変わらない知識を持っている。古書店主とは、私たちにとって最も身近な「在野の知識人」なのだ。私は昔から、司馬遼太郎の『街道をゆく』や宮本常一の本を読むのが好きだった。この「古本街道をゆく」が、在野の知識人である古書店主を通して見た、一風変わった各地のフィールドワークになればと思っている。

【大正堂書店(長崎)】

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大正堂書店三代目・唐島清德氏

昭和のムード歌謡「思案橋ブルース(中井昭・高橋勝とコロラティーノ)」で有名(?)な長崎市の繁華街・思案橋。そこから十五分ほど歩いたところに大正堂書店はある。大正堂さんがある場所は鍛冶屋町という場所だが、このたくさんの寺と中島川に囲まれた鍛冶屋町・万屋町・諏訪町といったエリアは、どうやら長崎の古本スポットのようだ。このエリアには大正堂さんと、今回取材で伺ったひとやすみ書店さん、そして取材はできなかったが銀河書房さん、あと今はないが文禄堂という古書店もこの辺にあったそうだ。どの店も歩いて十五分とかからないので、長崎を訪れた際は行くべきだろう。

さて大正堂さん。このお店、九州の古本好きには言うまでもないが、明治四十三年創業の大・老舗古書店だ。今年で創業百五年というから凄い。私が『日本古書通信』で四年取材した中で、百年を越す老舗古書店と言えば、明治三十六年創業の神田・一誠堂書店さん、寛延四年創業の京都の竹苞書楼さん(日本最古の古書店)、そしてこの大正堂さんで三店目だ。今回話を伺ったのは、三代目の唐島清德氏と息子さんで四代目の史徳氏だが、「大正堂さんが九州で一番古いでしょう」と聞くと、何と九州には熊本の舒文堂さんというさらに老舗の古書店があると言う。九州恐るべし。いずれ熊本にも取材で行かねば。

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昭和五年の大正堂書店

最新号『日本古書通信・四月号』で大正堂さんを紹介しているので、詳しくは是非そちらをご覧いただきたい。ここではそこで書き切れなかった事を書いてみる。

一般に長崎でイメージすることと言えば、「原爆」「カステラ」「海援隊」、それから「ちゃんぽん」に「グラバー邸」くらいか。私は九州出身だが、その程度の知識を出ない。だが今回長崎の古本屋を巡って、必ず出たキーワードに「長崎大水害」があった。これは昭和五十七年に長崎を襲った災害で、死者・行方不明者は三百人弱。長崎市内のほとんどの棟が冠水したと言う。当時九歳で福岡に住んでいた私もおぼろげにだが記憶している。長崎の古本屋にとってこの大水害は悪夢のような出来事であったらしく、今回の取材で数軒の古本屋からこの話を聞いた。曰く「店の在庫が水浸しになり泣く泣く処分した」「地下の倉庫が水没して何トンもの本を廃棄した」など。さらに長崎大水害以降、稀覯本や戦前の資料など良い買取が激減したそうだ。水は紙の天敵である。つまり一般の家庭の書庫は無論、貴重な紙モノの資料が眠っている旧家の蔵なども水浸しになり、ほとんどが廃棄されてしまったのだ。大正堂の唐島清德氏によると、「昭和二十年の原爆と、五十七年の大水害は、長崎の古本屋にとって大打撃だった」。

「長崎は文化の発祥の地」であると言う。それは江戸時代、長崎の出島が海外との交易を許された唯一の機関で、このいわば「文明のへその緒」を通して様々な世界の新知識が日本にもたらされたからだ。西洋医学や科学、活版印刷や写真術など、「長崎発祥」と言われるものは数多い。古書の世界では、こうした資料を総称して「長崎モノ」と呼んだりもする。おそらく原爆と大水害がなかりせば、相当な「長崎モノ」が現存し、日本の近世・近現代史に資したであろうと思うと、この喪失に呆然とする。これが今回の大正堂さんを取材して、一番心に残った話であった。

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出島の風景。シイボルト著『NIPPON』より

第7回東京蚤の市を振り返って

5月の最初のイベントは、東京蚤の市です。
当店では、昨秋の東京蚤の市が終了したその日から、次の春の東京蚤の市の準備がスタートしました。
次回はどんな古本を持って行こうか?とか、何かテーマを設けて古本を集めてみようとか、店主と話し合いながら自分の頭の中で考えながら、カタチを作る作業に入ります。
いまは月末に開催される「GOOD FOOD MARKET」のことで頭がいっぱいです。と同時に手紙舎さんの本棚に納品する古本のセレクトや、古書モダン・クラシックのオンラインショップにアップする古本のことも考えています。

今回で第7回目となる東京蚤の市ですが、記念すべき第1回目に私は参加することができませんでした。長男を出産直後だったため、会場の様子などは店番をしていた店主から聞いていました。それから現在に至るまで、チャレンジと反省の繰り返しできましたが、ある古道具屋さんの仕事ぶりに店主ともども感銘を受け、勉強になり、少しは自分たちらしさを出せるようになってきたところです。

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東京蚤の市2日目の日曜日の朝、今回が東京蚤の市最後の参加となるロシア・ソ連の絵本のお店「ふぉりくろーる。」さんで購入したバッジを付けてみました。
調布に引っ越す前に住んでいた街で、当時、ふぉりくろーる。さんはご近所さんでした。
きっとまたいつかどこかで、お会いできることを楽しみに。

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